綾子は最初、何を言われているのかわからなかった。答えない相手に、詩織は続ける。
「こういう商売をしている人って、無許可な医者と繋がりがあるんでしょう?」
聞いたことがあるんです、と言って顔をあげる詩織。少し額に汗が滲んでいる。
「そういうところへ連れて行ってください」
「ちょっと待って」
綾子は慌てる。
「そんなところへ行ってどうするの?」
「この子を産みます」
揺るぎのない、キッパリとした声だった。綾子は今でも覚えている。
「家を出て、この子を産んで、二人で生きていきます。もうあの家に居るのは嫌」
「嫌って」
「嫌なんですっ」
叫びそうになる声を必死に押し殺す。
「もう嫌なんです」
どうせ高校も辞めさせられてしまった。家に閉じ込められ、噂が沈静化した頃を見計らってどこかへ嫁がされるだけだ。そうして後は知らぬ存ぜぬ。
嫁がせると言うより、家から追い出すと言った方がいいだろう。家名を汚す可能性のある娘など、長く家へ置いておく必要もない。むしろ厄介なだけだ。詩織は妹と二人姉妹。妹の方に養子を取らせればそれでよい。
小さい頃から真面目で大人しかった詩織。親の言うことにも口答えせず、両親にとっても自慢の娘であった。そうなるように、詩織も努力してきた。その結果がこれか。
詩織に非があるワケでもないのに、なぜ父親に責められなければならない? 家名の為に命を掛けてまで中絶をする必要が、本当にあるのか?
父親の言葉を聞いた途端、詩織は急にお腹の子供への愛情が沸いた。
「私を襲った三人のうち、誰の子供かはわかりません。わかりませんし、知りたいとも思いません。ただ、この子が私の子供である事には変わりありません」
「だからと言って、産んでからどうやって二人で生きていくの?」
進学校へ通い、品行方正に生活してきた詩織は、勉強はできても稼ぐ術は知らない。水商売をし、社会の厳しさを日夜まざまざと見せ付けられながら生きている綾子には、目の前の詩織がほとほと世間知らずの我侭な娘に見えた。
可哀想だとは思うが、呆れずにはいられない。
そんな綾子へ向かって、詩織は初めて、綾子と出会ってから初めて、不敵な笑みを頬にのぼらせた。
「こちらで雇ってください」
「は?」
「綾子さんのところで、働かせてください」
「はぁ? バカ言わないで。誰があなたのような子供を」
こんな小娘、足手まといになるだけだ。それに、どうせ三日も続かないで辞めてしまうだろう。それは構わないが、詩織はまだ未成年だ。働かせたという事実がバレれば犯罪だ。
「冗談じゃないわよ。こっちだって面倒に巻き込まれるのはゴメンだわ」
両手を広げる綾子に、だが詩織は不敵に食い下がる。
「でも、このお腹の子は、綾子さんの姪になるかもしれないんですよ」
「姪?」
美鶴は思わず聞き返す。
中絶されそうになった胎児が自分である事はわかる。と言うことは、つまり、綾子ママが私の、伯母?
訝しそうに見てくる少女の瞳と向かい合う事なく、綾子はまた水割りを口にした。
「えぇ」
まずそう一言。
「そう、美鶴ちゃんはね、ひょっとしたら私と親戚関係になるのかもしれないのよね」
「え? それってどういう」
「あのね」
綾子の口元が、少しだけ、寂しそうに笑った。
「詩織ちゃんを襲った三人の男のうち、一人が私の弟だったの」
綾子と弟は、小さい頃より養護施設で育った。親切な施設ではあったが、やはり二人とも世間からの逆風には勝てなかった。特にスポーツで身を立てようとしていた弟は、金銭的な理由で断念せざるをえない事実を突き付けられ、世間に背を向けるようになっていった。
彼を支える事ができるのは自分しかいない。
そう思う姉も、気持ちだけでは弟を支える事はできない。
奨学金制度を使ってなんとか高校を卒業した後、正社員として就職した。だがその職場で上司からの性的嫌がらせを受け、退職した。
「問題を起こしても保証してくれる親がいない君を、親切にも正社員として雇ってやっているんだ。何か文句でもあるのか?」
被害を訴えれば会社からはそう返された。悔しかったが、綾子には反論する術はなかった。
当時は今ほどセクハラなんて言葉に毅然とした態度で対抗できるほど世間は優しくはなかったし、法的な整備もずっとルーズだった。痴漢行為ですら「されるような格好をしてる女の方が悪い」「痴漢にあうのが嫌ならもっと早起きをして空いている時間に通勤すればいいだろう」といった言葉が当たり前のように聞かれる社会だった。
親がいないという条件は、就職では絶対に不利だ。加えて綾子は高卒。派遣という就労スタイルはまだ確立されておらず、日雇いやアルバイトでは生活できない。やがて綾子は、夜の仕事での収入に頼るようになっていった。
それでも希望は失わなかった。人間としてのプライドも失わなかった。
颯爽とブランド物のスーツを着こなしながら平然とタバコのポイ捨てをする男を睨みつけながら、時間のある昼間にはボランティアの清掃活動にも参加していた。
人間としての道だけは外してはいけない。
そう言い聞かせていたある日、弟の逮捕を聞かされた。
謝らなければ。
まずそう思った。
被害を受けた少女に、謝らなければならない。
事件が起きれば、被害者と加害者の間には警察やら弁護士やらが立つのが通常だ。だが綾子の弟を世話した弁護士は、どのように対処をすればいいのかを、綾子に詳しく説明しなかった。
「まぁこんな事件は、あなたのような人間の方が詳しいのかもしれませんけどね」
タバコを咥えてそうボヤく。
あなたのように親もおらずに養護施設で育ったような人間なら、このような事件も身近に起こるでしょう? あなたのように水商売で生活している人間なら、こんな強姦事件、日常茶飯事でしょう? 別に珍しくもないでしょう? どうせ犯罪スレスレの生活をしているんでしょう? 警察や加害者家族にどのように接すればいいのか、わかるでしょう?
だから綾子にはわからなかった。加害者に対してどのような形で謝罪をすればいいのか、綾子は知らなかった。
勤めている店の人間に聞く事もできたが、みな綾子に気を使ってくれるため、逆に事件の事を口に出して周囲を巻き込むのは避けたかった。
これは私と弟の問題だ。だから、私と弟で解決しなければならない。
だから一人で必死に考えた。わからないなりに考えた。
やっぱり、謝りに行くべきだ。
報道では被害者の名前は伏せられていたが、噂などでいくらでも広まる。探し回り、家を見つけた。
加害者の家族が被害者の家を突然尋ねるなど、なんて常識外れな行動だと呆れるかもしれない。だが、決め付けられ、必要な情報も与えられない中で必死に考えて行動した彼女の何が悪い?
綾子は意を決し、立派なお屋敷のようなその建物の呼び鈴を、心臓が飛び出るほどの緊張を携えて押した。だが、呆気なく追い払われた。
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